ネットのコミュニケーション 2

前回の最後に提示した質問に、1つもYesと答えなかった人は多分いないのではないでしょうか?「たまたまネットで、自分にピッタリの人と出会えただけだよ。」という反論は、数字として現われる圧倒的な事実の前に敗北するでしょう。

そう、前回提示した質問にあるような事は、ほとんどネット特有のものだという認識をもたねばなりません。実生活でも同じような経験を多くもつ人は、いうなれば「ネット的なコミュニケーションを実生活上でもおこなっている人」と言い換えることができるかもしれません。つまり、幸福な勘違いを起こしやすい人のことです。相手の表情や、声のトーンを注意深く観察すれば、相手があなたに対してどういった感情をもっているかは、ほとんど想像がつきます。相手が嘲笑の表情を浮かべて「君って幸せだね」と言ったら、あなたはどう思いますか?即座にイヤミであると思うでしょう。ではネット上で言われたらどうですか?相手の表情はわかりません。あなたは相手に好印象を抱くかもしれませんね。しかし幸福な勘違いを起こしやすい人は、これが実生活であっても相手のイヤミに全く気付かない、または気付こうとしないために相手に好印象を抱くかもしれません。

実生活では臆病で、相手の表情を常にうかがうような人でも、こういう勘違いを起こしやすいのがネットのコミュニケーションだということです。そこにはある種の願望が存在しています。願望によって、見たいものだけを見ているのです。見たくないものまで見えてしまうのが実生活であると言えます。

もうひとつネット上で特有と思われる現象について語りたいと思います。それは「人格の誇張」です。ネットでは意識せずとも実生活よりずっと簡単に、見せたいものだけを見せることができます。

「妙にいい人」、「悪意の塊のような人」、こんな人に頻繁に出会うのもネットならではだと思います。自分に置き換えて考えてみましょう。公園の木陰で1人読書をしている自分の前に、迷子になって泣いている小さい女の子がいるとします。回りには誰もいません。ほとんどの人がこういう状況下では「いい人」になれるのではないでしょうか?回りに誰もいないということは自分を飾る必要がないということです。いつもなら恥ずかしさが先に立って、なかなか声をかけづらいという人も、誰もいなければ素直に女の子に声をかけられるのではないでしょうか?その女の子を無事にお母さんの元に送り届けてあげたあかつきには、あなたの心は暖かい気持ちに包まれるでしょう。多くの人は「こういう自分」でありたいという願望をもっています。素直な自分が出せる場所では、こういう願望は割と簡単に成就させることができます。ネットとは「こうありたい」という自分を出しやすい場所だということです。

しかし、常に「いい人」でありつづけられる人はなかなかいません。つい30分前に女の子をお母さんに送り届けたあなたの携帯電話に、別れた恋人からしつこく電話がかかってきたとしましょう。あなたの心変わりを責め、復縁しないのであれば自殺するとほのめかします。そのうえあなたの新しい恋人にしつこく無言電話や、あなたがいかにひどい人間であるかを告げる電話をかけていることが発覚したとしましょう。それでもあなたはさっきの暖かい気持ちを持ちつづけることができますか?その別れた恋人に優しい言葉をかけてあげることができますか?これは無理です。当たり前です。あなたの心はささくれ立ち、表情はこわばり、普段なら大して怒りもしないこと、例えば家族に頼んだタイマー録画の失敗なんてものに過剰に反応して、口汚く罵ったりするかもしれません。何も事情を知らない家族にとってみれば、「なんて心の狭いやつなんだ。なんて悪意に満ちてるんだ。」と思うでしょう。

どちらも真実のあなたです。いい人でもあり、心の狭い人でもある、ごく普通のあなたです。大部分の人がこういう2面性を丁度良い配分でもっています。(もちろんもっと悪意に満ちた人や、もっと善意に満ちた、配分の偏った人もいます)しかし実生活でここまで極端に「いい人」と「悪い人」の間を頻繁に行った来たりすることも、稀ではあります。そういう振幅の激しい感情を常に剥き出しにする人は「情緒不安定」の烙印を押されるからです。実生活であれば、この烙印を押されることは、とても生き辛い状況を作り出しますが、ネットであれば、それほど深刻な状況にはならないと言えます。その場を逃げ出せばいいからです。あるいは烙印を押されたことから目を背ければいいからです。そのため、実生活では感情の振幅を抑えている人でも、ネット上ではそれを剥き出しにするということが多くみられます。また、「こうありたい」という自分を誇張して表に出している人は、「そうでない自分」を隠しきれずに爆発させてしまうこともあります。そういうときの「自分」は、いつも見せている「自分」とあまりにもかけ離れているために、周りから見れば異常な感じがするのです。誇張の度合いが激しいほど、逆の自分が現われたときに振幅が激しく見えるのは当然のことです。

ネットで付き合う人が短期間でコロコロ変わるというのはこういったことが関係していると思います。付き合いが濃密なのは、お互いが誇張され単純化された人格になることによって、相手に自分を理解してもらう期間を短縮しているからです。そして短期間でその関係が終わってしまうのには2つの理由があると思います。1つは誇張され単純化された人格はすぐに飽きてしまうからです。相手をほとんど理解してしまったと感じたとき、その関係はつまらないものになるでしょう。もうひとつは逆に、誇張され単純化された人格と、別の人格とのギャップに相手が耐えられなくなる場合です。常に一定の人格を保ち続けることは容易ではありません。しかしネットでは人格が誇張されているために、別の人格を見せたときに相手が感じる「情緒不安定」の度合いは実生活以上に強烈なのです。

こういう短期間で終わる激しいサイクルの人間関係というものは、果たして私たちにどんな影響をあたえていくんでしょうか?僕にはそこまで考えられる頭がありません。実生活では物理的な障害があるために、なかなかたくさんの人に出会う機会は得られません。ネットではその障害がなくなるだけであって、もし、実生活でも同じようにたくさんの人と知り合うことができると仮定したら、やはり同じようにサイクルの短い付き合いが存在するのかもしれません。しかし子供じみたわがままのようなものかもしれませんが、どうせ付き合うなら長く付き合いたいと思うのです。そのためにはネットの特性を知り、それに対処することが必要だと思います。実生活と同じように、誇張しない素直な自分を出し(全てをさらけ出すという意味ではありません。それは激しい感情を伴った、一種の誇張と言えるでしょう)感情の振幅を常識的な範囲にとどめるのが、最良の方法だと僕は思っています。一言で言えば「中庸」です。ただしこういう付き合い方をすれば、当然実生活と同じように相手を理解するには相当な時間がかかりますし、また「長い間探し求めていた真の友人に出会えたような」カタルシスは得られません。ごく穏やかな人間関係がゆっくりと築かれるだけです。


人格の誇張を見抜ける人はネットの成熟とともに増えていると思います。(2002/02/21)


次回はネットで出会う「悪意の塊のような人」のことを考えたいと思います。彼らはなぜ、「こうありたい自分」を見せないのでしょうか?それとも「こうありたい自分」が「悪意の塊」であるのでしょうか?

2001/07/17

つづく…(N)
webmaster@kowagari.net