まったく人間とも思えない、真に「悪意に満ちた人間」というものは、残念ながら存在しているようです。自分の欲求を満たすためにはどんな手段も厭わない、自分の欲求の妨げとなるモノはなんとしても排除するような人間。あるいは、自分を取り巻く世界の全てに対して憎悪と敵意をもって接する人間です。
最近では「精神異常」という言葉を嫌い、「反社会性人格障害」=「サイコパス」という言葉が好んで使われているようです。大昔であればこのような人たちは「狂人」として、半ば病気のような扱いを受け、社会から隔離されてきました。しかし現代では、彼らは「社会」さえなければ(そんなことはありえないのですが)、ごく正常な「人間」だという扱いを受けています。彼らが異常であるのは、この「理性ある人間の集合」=「社会」の中にいるからであり、例えば弱肉強食の野生動物の世界にいると仮定すれば、なるほど彼らは「正常な人間」よりむしろ正常であるというわけです。そしてまことに素晴らしき人権思想の庇護の下、どんな監視をも受けず活き活きと生活しています。実際彼らが何か重大な犯罪を犯さない限りは、「社会」は何の手出しもできません。かくして明日にも人を殺しかねない「社会の爆弾」は、あちらこちらで舌なめずりをしており、哀れな犠牲者が出て初めてやっと、社会から抹殺されるという仕組みになっています。大昔と現代と、どちらがより賢明であったかという論議に大きな意味はないでしょう。人間はその時々の社会に合わせて生きていく以外にないのですし、大昔の論理にも現代の論理にもそれなりの正当性がありますから。人間は本質的に「善」であるとか「悪」であるとかいう説にも大した意味は見出せません。生物が生きることには確かに善も悪もないからです。それらはごく相対的な話でしかありません。「正常な人間」を自負する者は、こういったサイコパスの犠牲にならないように、せいぜい用心する以外にないでしょう。
ちょっと話が脱線しましたが、今回話したいのは、こういうサイコパスのことではありません。もっと取るに足りない(と思われがちな)「悪意ある人」のことです。結論から言います。彼らの多くは単にコミュニケーション不全に陥っているだけです。
ごく一般的に言うような「幸福」な状態にある人は、そのような悪意をなかなか表に出すものではありません。悪意それ自体はほぼ全ての人が多かれ少なかれもっている、あるいはその兆候を秘めているものですが、それが表に出るかどうかは、その人の「幸福度」によると思われます。しかし「幸福」の度合いは非常に恣意的であり、ある人にとって幸福な状態が、別の人にとっても幸福であるかどうかは保証の限りではありません。僕が考える「幸福な状態」とは、「自分を取り巻く世界との正常なコミュニケーションが成り立っている状態」です。こう書くと「正常とは何か」という定義の問題になりますが、これは実は誰もが直観的に理解しうることだと思うんです。僕も「正常」とか「普通」という言葉は比較的好きではないんですが(「普通の人」「普通じゃない人」なんて実は存在しないという意味においてです)、「正常なコミュニケーション」とはごくシンプルに考えて、「周りに受け入れられること、周りを受け入れること」でしかないと思うんです。
ケーススタディとして1人の人物を想定してみましょう。仮にXさんとしておきます。彼(彼女でもいいです)は何らかの理由で人間不信に陥っています。周りの人を信用することができず精神的に孤立していますが、切実に「正常なコミュニケーション」を欲しています。陳腐な言い方をすれば「愛に飢えている」わけです。X氏は周りに対してどのような接しかたをするでしょうか?これには段階的に2つのパターンが考えられます。
1.まず、臆病さがストレートに出ている場合です。この場合、X氏は周りに対してとても慎重な態度をとります。「この人は本当に自分を受け入れてくれるだろうか?」「もしかしたら自分は嫌われるかもしれない」このような思いを抱きつつ、慎重にコミュニケーションの糸口を探すでしょう。これは相手によっては「なんだか暗いやつだ。」というイメージを植え付けるかもしれません。それによってますますX氏の人間不信は深まる可能性があります。しかし、相手によっては「臆病な人だけど、なんだか真摯でいい人みたいだ」というイメージを植え付ける場合もあるでしょう。その場合はX氏は少しづつ安心を深めて、相手とのコミュニケーションを1歩づつ前進させますが、ある程度のところで(ここが重要です)、正常なコミュニケーションを逸脱し、それ以上のものを求めるようになる可能性があります。今までの人間不信を一気に瓦解させてくれるような濃密な関係を欲する余り、自分の全てを受け入れてくれないと気がすまない状態です。これは「正常」とは言えません。さきほど正常の定義らしきものを「周りを受け入れ、周りに受け入れられること」と言いました。つまり自分でさえも受け入れるのに負担となるような激しい感情は、相手にとっても受け入れがたいということです。しかしそれに気付いていても、この激情はなかなかおさまるものではないようです。
2.次は、臆病さの裏返しとして攻撃性が出ている場合です。1のケースを経ている場合があります。このようなパターンに当て嵌まる人が一般的に「悪意ある人」と言えるでしょう。初めから「自分を受け入れてくれる人はいない」というあきらめや決め付けがあるため、コミュニケーションを成立させることに注意をはらうよりも、そのコミュニケーションによって生まれるであろう「幸福」に対しての敵意を前面に出してしまう人です。「そのような幸福は偽りである」という、経験に基づく誤った認識と、「そのような幸福が本当はどこかにあるかもしれない」という淡い期待との葛藤に苛まれてもいます。ここでX氏の認識で誤っている点を指摘しておかねばなりません。先ほど1のケースでも書いたとおり、「全てを受け入れてくれる人」というものは存在しないということです。X氏が受け入れられないものは、概ね他の誰でも受け入れることはできないのです。周りを受け入れることを放棄していながら、自分は全て受け入れて欲しいという極めて利己的な考えを捨て去らない限り、X氏が正常なコミュニケーションを獲得することはできないでしょう。
稀に非常に辛抱強かったり、悪意ある人に対するキャパシティが大きい人が、一時的にX氏を受け入れる場合があります。この場合、X氏も一時的に従順になるかに見えますが、多くの場合「全てを受け入れて欲しいという欲求」はどんどんエスカレートして、相手のキャパシティを超えてしまいます。ケース1と同じことが起こるわけです。これによってさらにX氏は「コミュニケーションによる幸福感は偽りだ。自分を受け入れてくれる人はいない。」という誤った経験則をさらに強固にするでしょう。負の悪循環に陥るわけですね。X氏は、常に相手がどこまでなら自分を受け入れてくれるかということを、わざと相手が悪感情を持つような言動をとることによって極端に試すようになります。しかしこのように相手を試すことほど無意味なことはありません。相手は、その人のキャパシティの範囲内でしかX氏を受け入れられないのです。そのキャパシティが大きいか狭いかをもって、相手の善悪を決めることは、そのままX氏自身に跳ね返ってくることになりはしないでしょうか?一般的に言われる「心の狭い」X氏が、心の広い誰かによって救われることはありえないのです。
「理想の関係」「全てを受け入れてくれる人」「完全に理解しあえる相手」「友達(恋人)とは裏切らないものだ」、そういったものに対する幻想が大きいということは、それだけ危険な悪循環に陥る可能性を持っています。相手の「本当の心」が一生かけても理解し得ないのは、実は「本当の心」などというものは存在しないからに他ならなりません。しかしこのことは決して絶望に値することではないのです。
付け加えると、ネットにおいてはこの「キャパシティが大きい(ように見える)人」がたくさんいます。前回書いた「人格の誇張」によるものです。X氏はそのために、実生活以上にこの悪循環のサイクルを短くするかもしれません。
2000/08/07