
大阪の事件についてずっと考えていたら頭が痛くなった。と思ったら実は持病の「耳から出血」のせいなんだと気付いた。恐らく耳の奥に膿みが溜まっていて、脳を圧迫してるんじゃないだろうか。それくらい痛い。
僕なりに考えたことをまとめておこう。
まず事件に巻き込まれた小学生たち。彼らの心のケアが最優先される問題であるのは間違いない。具体的にどういう処置を施せば小学生達の心の傷を癒せるのか皆目見当もつかないが、そんな大事な事は僕が考えずとも地域や社会や国がそれこそこぞって頑張ってくれるだろう。「校舎を見るだけで恐怖の感情が蘇る」ために、校舎の全面改築を検討しているらしい。いくらでも予算をつぎこんでくれという感じだ。幸いあの学校は国立らしいので、そのあたりの処置はスムーズにいくかもしれない。しかし、「臭いモノにフタ」方式で意識の深い部分に封印するようなやり方は、いつか彼らが大人になったときに最悪な形でぶりかえしやしないかと心配である。当面はそれでいいかもしれないが、いつかはこの事件とまともに対峙して闘うことが必要になるだろう。そのときまで行政やマスコミや地域はこの事件を風化させてはならない。風化させないという言葉はよく使われる陳腐な表現だが、要は個人個人が心に刻んでおけばいいだけの事だ。ちなみに僕は、12年前の「女子高生コンクリート詰め殺人」を今でも忘れていない。これからもずっとそのことについて考えつづけるつもりでいる。
次に法整備のありかただ。小泉首相が法制化に向けての検討を始めると明言した。具体的に言うと「重大犯罪を犯した精神障害者への処遇」という感じだろうか。とかく人権に配慮するあまり、危険な爆弾をすぐ世に放ってしまう今の方法では、必ずまた同じ事が起こる。これは単なる隔離政策、差別政策ではない。「重大犯罪を犯した精神障害者」と「精神障害者」を厳密に区別するだけの話である。現在のおざなりな措置入院制度は、精神障害者の一部に存在する危険な人物に対して、再犯してくれと言っているようなものだ。患者を背負い込みたくない医療現場の人間ではなく、警察や第三者機関が精神障害者の治療の度合いを判定する(それも最も厳格にだ)必要があるだろう。また、もっと突っ込んだ話になれば、心神耗弱または心神喪失者の犯した罪に対して厳罰をもって処すという議論があってしかるべきだ。これは犯罪抑止論としての厳罰化ではない。遺族や被害者の感情論としての厳罰化である。つい先だって、高速道路での酒酔い運転による死亡事故(事故と呼ぶのもばかばかしい)の被害者がこのような運動を行って、政治を動かした。大阪の事件をきっかけに被害者感情に考慮した法整備がなされる余地は充分にある。犯罪者擁護が趣味としか思えない馬鹿げた人権論者や、死刑反対論者がまたぞろ強硬な姿勢で反発するだろうが、彼らこそがこの惨劇の遠い産みの親であることを自覚して欲しい。
法曹がうわっついた机上の空論でお遊びしている間に、どんどん無意味な死が積み重ねられ、遺族や被害者に多大な苦痛が与えられる。法は最大多数の最大幸福を実現するツールだ。感情を置き去りにした議論でこれが実現できるのか? 「悪法も法」などという馬鹿げた言説は消えてもらいたい。悪法は駆逐するべきなのだ。
最後に犯人について。短時間で大量殺人を行う人間にほとんど共通しているのは自殺願望だそうだ。ゆえに死刑は彼らの犯罪を抑止できない。だからと言って死刑を望まないわけではない。死に値する犯罪は厳として存在していると確信している。あくまでも抑止論ではなく感情論としての死刑推進だ。
ではこのような犯罪を犯す人間はこれから先、何らかの方法で根絶することが出来るだろうか? あるいはその数を激減させることができるだろうか? これに関しては明るい未来は見えない。人は人を殺す。どうしようもなく脱力感を感じるが、これは止めようのないことだ。数を激減させることも出来ない。バカみたいに当たり前の話だが、もともとこのような重大な犯罪を犯す者はそう多くはいないからだ。センセーショナルに報道されるために強く人の心に残るが、こんな事件が毎週のように起こるわけではない。「最近、なんか世の中おかしくなってきてるよね」などと言う言葉を聞いたりするが、太古の昔から、ほとんど変わりない頻度でこうした大量殺人は起こり続けている。いつの世もどの社会も常に「大量殺人を犯す人間」をその内部に抱え込んでおり、それを発見する術も抑止する術も持たないのが事実だ。であるなら、社会に出来ることは犯罪が起きた後でその犯罪者を抹殺し、再犯を防止する事と、遺族と被害者の感情に配慮する事以外にない。他に何があるというのか?
「犯人は精神病でした。なので罰せません」こんな理屈で最大多数の理解を得られるのか? 人を殺した者に健常者も障害者もないと僕は強く思う。人を殺した犯罪者に人権などが保証されてたまるか。「人権」などというものは時代や社会によって可変的なものであって、絶対的なものではない。いっそのこと、イスラムのように衆人環視のもと、土に埋めて投石による死刑でもやったらいい。それでも足りないくらいだ。日本が法治国家を自認するならば法を変えればいいだけの話であって、その動きを作るのはエリートを気取り、大衆を愚弄する一部の特権階級ではなく、大衆の声、感情そのものなのだ。これは差別撤廃の動きと何ら矛盾するものではない。繰り返して言うが、「精神障害者」と「人を殺した精神障害者」を同列に語るなということである。
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