死刑というのは一般人による殺人を禁じ、国家と法によってのみ殺人を容認するという、国家による暴力システムだ。これは国家と法による判定に誤りがないという大前提があって成立する。ゆえに幾度となく繰り返される、「誤審による冤罪を防げないから死刑は廃止すべきだ」という議論がある。誤審に関しては確かにその通りとしか言いようがない。「国家と法」という何か雲をつかむような漠然とした存在も、こと司法に限定すれば、それは単に1人の裁判官の判断ということになる。どれだけの人数を割き、どれだけの時間をかけ、どれだけ綿密に事件を調べたところで、死刑判決を下すのは所詮は1人の人間だ。間違いが起こらないはずがない。
もっとさかのぼった議論では、「人が人を殺すということを容認していいのか」という国家による暴力システムそのものを否定するものもある。誰にも人を殺す権利はないという考え方だ。これは死刑推進論者にとっても魅力的な考え方に見える。誰も殺されない社会が理想なのだから。しかし国家と法が犯罪者を手厚く保護し、生かしている間に、次から次へと別な犯罪者が罪のない人を殺していく。誰も殺されない社会などあり得ないのだ。人を殺した犯罪者は生かされ、罪の無い人が殺されるのは防ぐことが出来ないという、なんともやりきれない構図が出来上がる。こうなると、死刑推進論者が前面に押し出す論点は「犯罪抑止」ということになる。殺人者を殺すことによって、新たな殺人者が生まれるのを少しでも減らせるのであれば死刑やむなしという考え方だ。しかしこれも死刑反対論者が提示する膨大なデータによってあっけなく否定される。死刑は、殺人をほとんど抑止できないという事実がある。死刑推進論者は反対論者と同じ土俵で議論しても勝ち目はない。実現不可能な理想郷を前提に議論してはダメなのだ。
死刑反対論者、人権論者の根底にあるのは多分に欧米的、キリスト教的な考え方だ。彼らに共通するのは、自分と違う考えを持つ者は非文明的であり、原始的で野蛮なので自分達がそれを教化して改善してやらねばならないという使命感だ。これに対しては疑義を感じざるを得ない。世界を見渡せば、エロ本を売っただけで死刑にされる中国のような国もあるわけで(それがいいことだとは当然思っていないが)、多様な社会を容認できない懐の浅さを感じさせる。「多様な社会」の中に「万人に殺人を認める社会」が含まれていたらどうだ? という疑問が出るかもしれないが、それほど人間はバカではない。殺人はどの社会にも共通した最も強固なタブーのひとつだ。
僕がこのキリスト教的死刑反対論にどうしても馴染めないのは、そこに極めて宗教的な感情排除の論理が含まれているからだと思う。感情を排し、理想を追い求めるだけでそれが実現出来るならば、とっくの昔にそのような理想郷は築かれているはずだ。しかし歴史上そんなものは一度として出現していない。むしろキリスト教によって多くの血が流れているくらいだ。
では感情剥き出しの復讐社会を容認すべきと思っているのかと言えば、これも違う。バランスだ。感情を尊重し、理想を尊重する以外にない。その妥協点は決して死刑廃止ではなく、むしろ今の日本においては死刑推進であると思っている。
僕の考えをごく平易な表現で言うとこうだ。「初めから殺す目的で人を殺した者、無差別に人を殺した者、利己的に人を殺した者は死刑に処すべきである」この考えが極論であるとはどうしても思えない。
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