ゲーム論の途中だが、これだけの大事件が起こっているのに知らん顔してゲームの話を書く気にはなれないし、何も書かないでいることも出来ない。社会的な出来事は、できれば胸がスっとするような素晴らしい事だけを書きたいのだが、世の中には素晴らしい事よりも目を背けたくなるような事の方が多い。
小学生8人が惨殺されるという未曾有の大事件が起きた。覚えておこう2001年の6月8日だ。胸に刻んでおきたい。
この事件を考える上で、犯人の病歴と人権問題の絡みを抜きにすることは出来ないのかもしれないが、僕はそのことにまだ目を向けられない。僕は今教室にいる。目の前で女の子が馬乗りになられて刺されている姿が見える。さっきまで楽しく遊んでいた友達の体が、怖くて近寄れない肉の塊になり果てていくのが見える。大きなナイフを持った怪物が見える。
殺された子も、傷つけられた子も、必死に逃げて助かった子も、それらの家族も、どうか心安らかになる日がいつか来ますように。そしてこんなことが2度と起こりませんように。
大阪の事件についてずっと考えていたら頭が痛くなった。と思ったら実は持病の「耳から出血」のせいなんだと気付いた。恐らく耳の奥に膿みが溜まっていて、脳を圧迫してるんじゃないだろうか。それくらい痛い。
僕なりに考えたことをまとめておこう。
まず事件に巻き込まれた小学生たち。彼らの心のケアが最優先される問題であるのは間違いない。具体的にどういう処置を施せば小学生達の心の傷を癒せるのか皆目見当もつかないが、そんな大事な事は僕が考えずとも地域や社会や国がそれこそこぞって頑張ってくれるだろう。「校舎を見るだけで恐怖の感情が蘇る」ために、校舎の全面改築を検討しているらしい。いくらでも予算をつぎこんでくれという感じだ。幸いあの学校は国立らしいので、そのあたりの処置はスムーズにいくかもしれない。しかし、「臭いモノにフタ」方式で意識の深い部分に封印するようなやり方は、いつか彼らが大人になったときに最悪な形でぶりかえしやしないかと心配である。当面はそれでいいかもしれないが、いつかはこの事件とまともに対峙して闘うことが必要になるだろう。そのときまで行政やマスコミや地域はこの事件を風化させてはならない。風化させないという言葉はよく使われる陳腐な表現だが、要は個人個人が心に刻んでおけばいいだけの事だ。ちなみに僕は、12年前の「女子高生コンクリート詰め殺人」を今でも忘れていない。これからもずっとそのことについて考えつづけるつもりでいる。
次に法整備のありかただ。小泉首相が法制化に向けての検討を始めると明言した。具体的に言うと「重大犯罪を犯した精神障害者への処遇」という感じだろうか。とかく人権に配慮するあまり、危険な爆弾をすぐ世に放ってしまう今の方法では、必ずまた同じ事が起こる。これは単なる隔離政策、差別政策ではない。「重大犯罪を犯した精神障害者」と「精神障害者」を厳密に区別するだけの話である。現在のおざなりな措置入院制度は、精神障害者の一部に存在する危険な人物に対して、再犯してくれと言っているようなものだ。患者を背負い込みたくない医療現場の人間ではなく、警察や第三者機関が精神障害者の治療の度合いを判定する(それも最も厳格にだ)必要があるだろう。また、もっと突っ込んだ話になれば、心神耗弱または心神喪失者の犯した罪に対して厳罰をもって処すという議論があってしかるべきだ。これは犯罪抑止論としての厳罰化ではない。遺族や被害者の感情論としての厳罰化である。つい先だって、高速道路での酒酔い運転による死亡事故(事故と呼ぶのもばかばかしい)の被害者がこのような運動を行って、政治を動かした。大阪の事件をきっかけに被害者感情に考慮した法整備がなされる余地は充分にある。犯罪者擁護が趣味としか思えない馬鹿げた人権論者や、死刑反対論者がまたぞろ強硬な姿勢で反発するだろうが、彼らこそがこの惨劇の遠い産みの親であることを自覚して欲しい。
法曹がうわっついた机上の空論でお遊びしている間に、どんどん無意味な死が積み重ねられ、遺族や被害者に多大な苦痛が与えられる。法は最大多数の最大幸福を実現するツールだ。感情を置き去りにした議論でこれが実現できるのか? 「悪法も法」などという馬鹿げた言説は消えてもらいたい。悪法は駆逐するべきなのだ。
最後に犯人について。短時間で大量殺人を行う人間にほとんど共通しているのは自殺願望だそうだ。ゆえに死刑は彼らの犯罪を抑止できない。だからと言って死刑を望まないわけではない。死に値する犯罪は厳として存在していると確信している。あくまでも抑止論ではなく感情論としての死刑推進だ。
ではこのような犯罪を犯す人間はこれから先、何らかの方法で根絶することが出来るだろうか? あるいはその数を激減させることができるだろうか? これに関しては明るい未来は見えない。人は人を殺す。どうしようもなく脱力感を感じるが、これは止めようのないことだ。数を激減させることも出来ない。バカみたいに当たり前の話だが、もともとこのような重大な犯罪を犯す者はそう多くはいないからだ。センセーショナルに報道されるために強く人の心に残るが、こんな事件が毎週のように起こるわけではない。「最近、なんか世の中おかしくなってきてるよね」などと言う言葉を聞いたりするが、太古の昔から、ほとんど変わりない頻度でこうした大量殺人は起こり続けている。いつの世もどの社会も常に「大量殺人を犯す人間」をその内部に抱え込んでおり、それを発見する術も抑止する術も持たないのが事実だ。であるなら、社会に出来ることは犯罪が起きた後でその犯罪者を抹殺し、再犯を防止する事と、遺族と被害者の感情に配慮する事以外にない。他に何があるというのか?
「犯人は精神病でした。なので罰せません」こんな理屈で最大多数の理解を得られるのか? 人を殺した者に健常者も障害者もないと僕は強く思う。人を殺した犯罪者に人権などが保証されてたまるか。「人権」などというものは時代や社会によって可変的なものであって、絶対的なものではない。いっそのこと、イスラムのように衆人環視のもと、土に埋めて投石による死刑でもやったらいい。それでも足りないくらいだ。日本が法治国家を自認するならば法を変えればいいだけの話であって、その動きを作るのはエリートを気取り、大衆を愚弄する一部の特権階級ではなく、大衆の声、感情そのものなのだ。これは差別撤廃の動きと何ら矛盾するものではない。繰り返して言うが、「精神障害者」と「人を殺した精神障害者」を同列に語るなということである。
死刑というのは一般人による殺人を禁じ、国家と法によってのみ殺人を容認するという、国家による暴力システムだ。これは国家と法による判定に誤りがないという大前提があって成立する。ゆえに幾度となく繰り返される、「誤審による冤罪を防げないから死刑は廃止すべきだ」という議論がある。誤審に関しては確かにその通りとしか言いようがない。「国家と法」という何か雲をつかむような漠然とした存在も、こと司法に限定すれば、それは単に1人の裁判官の判断ということになる。どれだけの人数を割き、どれだけの時間をかけ、どれだけ綿密に事件を調べたところで、死刑判決を下すのは所詮は1人の人間だ。間違いが起こらないはずがない。
もっとさかのぼった議論では、「人が人を殺すということを容認していいのか」という国家による暴力システムそのものを否定するものもある。誰にも人を殺す権利はないという考え方だ。これは死刑推進論者にとっても魅力的な考え方に見える。誰も殺されない社会が理想なのだから。しかし国家と法が犯罪者を手厚く保護し、生かしている間に、次から次へと別な犯罪者が罪のない人を殺していく。誰も殺されない社会などあり得ないのだ。人を殺した犯罪者は生かされ、罪の無い人が殺されるのは防ぐことが出来ないという、なんともやりきれない構図が出来上がる。こうなると、死刑推進論者が前面に押し出す論点は「犯罪抑止」ということになる。殺人者を殺すことによって、新たな殺人者が生まれるのを少しでも減らせるのであれば死刑やむなしという考え方だ。しかしこれも死刑反対論者が提示する膨大なデータによってあっけなく否定される。死刑は、殺人をほとんど抑止できないという事実がある。死刑推進論者は反対論者と同じ土俵で議論しても勝ち目はない。実現不可能な理想郷を前提に議論してはダメなのだ。
死刑反対論者、人権論者の根底にあるのは多分に欧米的、キリスト教的な考え方だ。彼らに共通するのは、自分と違う考えを持つ者は非文明的であり、原始的で野蛮なので自分達がそれを教化して改善してやらねばならないという使命感だ。これに対しては疑義を感じざるを得ない。世界を見渡せば、エロ本を売っただけで死刑にされる中国のような国もあるわけで(それがいいことだとは当然思っていないが)、多様な社会を容認できない懐の浅さを感じさせる。「多様な社会」の中に「万人に殺人を認める社会」が含まれていたらどうだ? という疑問が出るかもしれないが、それほど人間はバカではない。殺人はどの社会にも共通した最も強固なタブーのひとつだ。
僕がこのキリスト教的死刑反対論にどうしても馴染めないのは、そこに極めて宗教的な感情排除の論理が含まれているからだと思う。感情を排し、理想を追い求めるだけでそれが実現出来るならば、とっくの昔にそのような理想郷は築かれているはずだ。しかし歴史上そんなものは一度として出現していない。むしろキリスト教によって多くの血が流れているくらいだ。
では感情剥き出しの復讐社会を容認すべきと思っているのかと言えば、これも違う。バランスだ。感情を尊重し、理想を尊重する以外にない。その妥協点は決して死刑廃止ではなく、むしろ今の日本においては死刑推進であると思っている。
僕の考えをごく平易な表現で言うとこうだ。「初めから殺す目的で人を殺した者、無差別に人を殺した者、利己的に人を殺した者は死刑に処すべきである」この考えが極論であるとはどうしても思えない。
前回「誤審」について書くのを忘れた。「誤審による冤罪を防ぐにはどうするか」という問題である。
しかしこれもシンプルに考えればバカな話であって、例えば目の前で人が殺され、多数の目撃者がいて、その場で現行犯逮捕された容疑者(と呼ぶのもバカバカしい)に誤審が生じる隙があるはずがない。そのようなケースにまで死刑反対をする理由がないということである。「推定無罪」のケースは従来通りであればいいわけだ。少しでも疑わしいのであれば、そういうケースには死刑を適用しなければいいのではないか?
情状酌量と判例主義についても考えておこう。ちょっと極論になるかもしれないが、人を殺しておいて更正もクソもないと思うのだ。償うべき相手が存在しないのにその罪を償えるのだろうか? 死を償うのは死以外にないのではないか? 過失致死はこの限りではないが、殺人罪においてはそう思う。
「私は幼女をレイプしたあげく殺し、死体を弄んだ元犯罪者ですが、今ではすっかり更正して、社会に貢献しています。私は罪を心から悔い、償いました。法による償いは終わりましたが、これからも償い続けるつもりでいます。そして死んだ女の子の分もしっかり生きていこうと思います」
犯人を死刑にしても死んだ女の子は帰ってこないのと同じく、犯人が更正しても死んだ女の子は帰ってこない。この犯罪者が更正することによって恩恵を受けるのは一体誰なのだろう? 被害者なのか? 社会なのか? 犯罪者自身だけなのではないか?
日本の判例では強盗殺人で3人を殺すとほぼ間違いなく死刑になるそうである。これに対して「子供の目の前で母親をレイプしたあげく絞殺し、泣き止まない子供を床に叩きつけて殺した」犯人には死刑がくだされない。無期懲役になる。なぜなら強盗目的ではなく、2人しか殺していないからだそうだ。全くバカげている。硬直した判例主義がまかり通るなら、法そのものを変えるしかないと思う所以だ。無期懲役になった犯人は10数年で間違いなく釈放され、世に出る。
40日間にわたって女子高生を監禁し、地獄の苦しみを与え、あげく殴り殺し、コンクリートに詰めて東京湾の埋立地に捨てたあの犯人たちも、もう既に釈放されている。「もう罪は償ったんだから差別するんじゃねーよ」という仏頂面で、僕の住む街を悠々と歩いている。
罪を悔い、本当に更正した者の影に「やっと刑期終わったか。くそかったりー。やってらんねー」とうそぶくサイコパスどもが何倍もいる。そのうちのいくらかは再犯し、いくらかは表面上大人しくしつつも自分を刑務所に送った社会に憎悪を抱き、いつ爆発するともしれない。あるいは殺人が割りに合わない犯罪だということを学び、功利主義によってのみ殺人を避けるようになる。こんなことが更正と呼べるのか?
日本には終身刑がないので、死刑さえ免れれば必ず10数年で刑は終わる。強盗目的で3人殺した者は死刑で、レイプ目的で2人殺した者は懲役10数年だ。裁判でしおらしい演技を貫けばもっと少ない年数にすることも出来る。この差につけこむ者たちに人権を保障し、名ばかりの更正の余地を残してやることにどんな意味があるのか教えてもらいたい。更正する権利を奪うことこそが、殺人の罪を償わせるということではないのだろうか?
……と書いていて少し虚しくもなってくる。常にこういう問題ばかりを考えているわけにはいかず、自分が生きるのに精一杯で日々の生活に追われている。出来ることは厳罰化推進派の政治家に1票を投じることぐらいだ。しかしそれをやるのとやらないのとでは大きな違いがあると信じるしかないだろう。小さく閉じた場所で声をあげることが全く無意味なことだと思うなら、書かなければいいだけの話でもあるのだから。
まだ足りない。もう少ししつこく考える。頭の中だけで考えるのでなく、データを見てみよう。
精神障害者の犯罪
1 刑法犯検挙人員中の精神障害者
平成十一年における交通関係業過を除く刑法犯検挙人員のうち、精神障害者は六百三十六人、精神障害の疑いのある者は一千三百六十一人で、両者の刑法犯検挙人員に占める比率は〇・六%となっている。また、罪名別検挙人員総数中に占める比率を見ると、放火が一四・四%、殺人が九・四%と、特に高くなっている。2 心神喪失者・心神耗弱者の刑事処分
平成七年から十一年までの五年間に、検察庁で不起訴処分に付された被疑者のうち、精神障害のため、心神喪失と認められた者及び心神耗弱と認められ起訴猶予処分に付された者並びに第一審裁判所で心神喪失を理由として無罪となった者及び心神耗弱を理由として刑を減軽された者は、合計三千六百二十九人である。罪名別では、殺人(七百二十六人、総数の二〇・〇%)が最も多く、精神障害名別では、精神分裂病(二千百三十四人、同五八・八%)が最も多くなっている。
これは法務省平成12年版の犯罪白書からの引用である。
この報告からわかることは、まず第一に全刑法犯に占める精神障害者の割合はとても少ないということだ。当たり前の話だが、まず精神障害者は元々全人口に占める割合が1%に満たない。それを差し引いても「精神障害者だから犯罪を犯す危険が高い」とは言えない。犯罪を犯す危険性は健常者とほとんど変わらない。しかしこと犯罪を犯した精神障害者に限ってみると、罪名別ではトップが放火、次が殺人と、重大犯罪に関わる者が健常者より格段に多い。「精神障害者」と「触法精神障害者」を厳密に区別する必要があることがわかる。
第二に、驚くほど多くの殺人(実に726人が殺されている)が心神喪失を理由に不起訴、もしくは心神耗弱を理由に刑を軽減されているという事実だ。これはどういうことを意味するのか? 端的に言えば再犯の危険性が高い爆弾を、野に放っているということである。
もうひとつ引用しておこう。1998年に行われた第8回精神保健福祉法に関する専門委員会議事録である。奇しくも僕がいつも見ている「ザ・ワイド」で有田芳生氏が全く同じもの(と思われる)を番組中で引用していた。原文のまま掲載する。
精神障害者の犯罪に対する分析ということで、山上先生が1980年の犯罪白書をもとに、80年1年で心神喪失ないし心神耗弱を認められたもの963件を対象に追跡調査等を行っております。最近のものでは、同研究室の井上先生が、946 例について、1991年3月31日までの追跡調査を実施しております。その 946例の分類ですが、ここに書いてあるのは、殺人、放火、傷害、窃盗、その他等の犯罪が多いと言われております。 また、山上先生の調査によりますと、そのうちの 320件を彼は調査されたのですが、そのうちの36件が過去に4回以上の前歴を有するという中で、この36例については、その犯罪の前歴の合計が 320件と。心神喪失で不起訴になったときの犯罪を含めると 356例を36人の精神障害者が犯罪を犯しているということで、罪種別に見ると、傷害罪が平均 9.6件、性犯罪が平均 8.8件、殺人平均 8.6件、これらの重大な犯罪がしばしば反復されているということがわかります。
たった36人で356件の重大犯罪が引き起こされている。レアケースとは言え、こうした異常に再犯率の高い触法精神障害者が厳として存在している事実を見逃してはならない。これだけの前歴を持った触法精神障害者が、5回目6回目の重大犯罪を犯すのを手をこまねいて見ているしかないという今の状況は間違っていると言うほかない。またこの議事録では、36例中、29例において「元々性格的に犯罪傾向の強い人物が、精神病罹患を契機に重大犯罪を犯すようになった」と報告されている。残りの7例が「元々大人しい性格だったのが、精神病罹患を契機に重大犯罪を犯すようになった」そうである。
ハンセン病は伝染性が極めて弱く、治療法が確立されているにも関わらず隔離されてきた。これは差別だ。では仮に伝染性、致死性が極めて強く、治療法が確立されていない病気が存在するなら、その患者はどのように扱えばいいのか? これは残念ながら隔離する以外にあるまい。これは差別とは言えない。
精神病患者全てが犯罪を犯すわけでもなく、治療可能な人がたくさんいるのにも関わらず精神病患者全員を隔離したならばこれは差別だ。では殺人を数件犯し、再犯の危険性が極めて高いことを予見でき、治療が困難な精神分裂病患者を隔離したならば、これは差別なのだろうか? こんな危険な人物は隔離されるべきだ。または死刑に処されるべきだ。
大阪の事件を起こした犯人は過去に数回の逮捕歴があり、心神喪失を理由に不起訴処分を受けている。彼が本当に精神障害者なのか、単なる社会病質者(反社会性人格障害者)なのかは判断つきかねるが、過去に重大犯罪を犯していないため、仮に法的な改正があったとしてもこの事件を防ぐことは難しかったかもしれない。しかし、1人を殺した触法精神障害者の、2人目以降の大量殺人は確実に防げるのだという事は言える。
であるならやはり、真に恐ろしいのは、普段大人しい顔をして仔猫を殺すことで満足していた健常者が、ある日突然封印されていた大量殺人者の顔を表わすことだ。これを防ぐ手段はない。
相変わらず耳から血が出ている。皮膚を切ったときに出るような鮮やかな赤い血ではなく、どす黒くドロドロとした粘性を持った膿みみたいな血だ。綿棒を突っ込むと一発で使えなくなってしまう。生理の血とはこういうものなのだろうかと想像したが(笑)、そういえば以前「真っ赤でさらさら」とどこかで聞いたような気もする。まあどうでもいいか。どうでもよくない気が日に日に強まってはいるんだが。
そんなかなりへこむ状況の中、仕事中も頭が変になるくらい大阪事件のことを考えていたり、いつもは忌避している掲示板でのフレイミングを起こしてみたり(最終的には不毛なフレイミングではなくまともな話し合いになったのが救いだが)、心身ともに疲れ果てた。仕事を放り出してハワイあたりに行ってしまいたい気分だ(ハワイどころか海外には一回も行ったことないんだが)。
書くには多大なエネルギーを必要とする「ゲーム論」の方はとりあえずお休みして、何か明るくなる話題を提供したい。何かを褒め称えるものがいい。で、いろいろ周りを見渡したら、なんとも身近なところにそういう存在がいたことに気付いた。
僕がつきあっている、というか飼っているというか、バカボという女性がいる。知り合って7年、つきあって(飼って)6年くらいになるんだが、彼女が人の悪口を言っているのをただの1度も聞いた事がない。毎日毎日バイトで四六時中顔を突き合わせていた時にもだ。(月間250時間(!!)を超えることもあった)
あまりにも白すぎるので、普段人の悪口ばっかり言ってる僕には「そんな南アルプス天然水みたいな清廉潔白な人物がいるはずない。裏もあるはずだ」としか思えず、バイトの連中にも男女を問わず聞いて回ったんだが、みんながみんな口を揃えて「あいつが人の悪口・陰口を言っているのは聞いた事がない」と言う。こりゃ本当にすごいことだ。ほとんど信じられないがそういう人間も世の中にはいるってことである。冷酷非道なサイコパスの心理は常人には理解しがたいのと同じように、彼女の事もいい意味で理解しがたい。
こういうやたら白い人というのは、相手にもそれを強要したり、あまりにも理想主義で融通が利かなかったりするものだが、それがないのも彼女の美点だ。ニコニコと人の悪口は聞き流すし、僕のように正論をふりかざしていきりたつこともない。なんとも懐のでかい そら恐ろしい人物だ。彼女が誰かに嫌われることがあるとすれば、それは妬みや嫉み、逆恨み以外にないと断言できる。
僕の中での中庸とは、時には真面目に世界の平和を考え、時にはエロの妄想に浸り、時には憎しみの感情に溺れ、時にはくだらないお笑いで脱力することでバランスを取るってことなんだが、元々憎悪の感情を持ってない人の中庸とはどういうものなのかと不思議な気分になる。何の罪もなく、いろんな未来が待っていたはずの小学生が殺されてしまう世の中に絶望しかかっていた気持ちが、ふっと上昇する気がする。
僕がいろいろなバランスを取って、そこそこ平穏に暮らしていられるのは彼女の存在が身近にあるからなのかもしれない。そういう対象を持たない人は宗教とかに頼らざるを得ないことを思うと、僕は実にラッキーだということだ。
しかし欲を言えばキリがないわけで、彼女の容姿が松嶋菜々子ではなく天才バカボンだったのは実にアンラッキーだ笑。
7月1日からいよいよJASRACによる「個人運営の着メロサイト潰し」が始まる。実に腹立たしいのだが、こちらはあくまでも著作権を侵害している立場なので大きな態度を取れないのが歯がゆいところだ。こそこそ逃げ回るのが精一杯である。
よくご存知ない方のために若干説明しておく。JASRACというのは「社団法人日本音楽著作権協会」という組織の略称である。音楽というものはいつ、どこで、どのように自分の著作物が利用されるか把握しづらいので、権利者はこの組織に著作物の管理を委託するのが通例である。委託を受けたJASRACはありとあらゆる場所で権利者の利益が損なわれないように監視の目を光らせることになっている。
「なっている」と書いたのは、実際は権利者の利益よりもJASRAC自体の利益が優先されているように疑問をもたれている部分があることと、権利者の利益が明らかに損なわれていない場合にまで(むしろ権利者の利益に結びついている場合にまで)JASRACがしゃしゃり出てきて、莫大な金を手に入れようとしている(ように思われる)からである。
僕は著作権法に明るくないし、今回のJASRAC問題についてもそれほど明るくないので、一般市民の素朴な疑問(というか着メロサイトを作っている者の悲痛な叫び)という形で、これらについて述べようと思う。
今回JASRACがやろうとしていることは、簡単に言うとインターネット上での音楽配信に「課金」という規制の網をかけるということだ。デジタルな音楽データは際限なく複製が可能であり、野放しにすれば権利者の利益に大打撃を与えかねない。NapstarでのMP3共有に規制がかけられたのと、ほぼ同じベクトルの動きである。しかし決定的に違うところは、あろうことか個人サイトのMIDI使用などという瑣末なケースにまで莫大な使用料を課そうとしていることである。これは世界でも例を見ない暴挙だと巷では評判だ。
HPを開くといきなり音楽が流れてくるサイトがある。人によっては「強制MIDI」と言って忌み嫌ったりするものだが(ちなみに僕も大嫌いだ)、このようにサイト上でBGMとして流す音楽にまで使用料を課すことが決定している。HPで音楽を流したい者はJASRACの認可を受け、BGMを差し替える場合はその報告をし、年間で1万円程度(場合によっては数万円)のお金を支払う必要がある。
その手続きの煩雑さにもうんざりなのだが、問題はそんなことではない。問題を一言で言えば、「権利者はそのような事を本当に望んでいるのか?」ということだ。現在までのインターネットの歴史や、広く世界の事例を見ると、このような小じんまりとした、ほとんど「個人の私的使用のための複製(著作権法第30条)」に近いものは黙認されてきた。私的使用のための複製とは、簡単に言うと自分で買ったCDをMDに録音して家で楽しむというようなことである。
もちろん世界中の人が閲覧し、データを容易に複製できるインターネット上でこのような事をするのは「私的使用のための複製」にはならず、いざ法を整備するとなれば、ザル法にならないように厳密に規定する必要はある。しかしいずれにしても著作権を保有する権利者が、2次使用、3次使用を認めれば、法的には何も問題はない。
仮に僕がある音楽の作曲者で、その楽曲の著作権を保有しているとしよう。CDが発売されており、その収入が結構な額だとする。このCDを丸ごとMP3化されて、ネット上で勝手に配布されたらそれは大打撃だ。著作権を主張して、配布している人物を告発するかもしれない。勝手にではなく「MP3化して配布してもいいですか?」と許諾を求められても絶対に応じないだろう。当たり前だ。
では HPのBGMとして1曲をMIDI化して流している個人サイトがあったとしたら僕はどうするだろうか? これは場合によっては黙認するかもしれない。CDをMP3化するのは容易で且つほぼ完全な複製だが、MIDI化するには楽譜から起こす手間があり、困難で不完全な複製だからだ。僕のCDを買おうとしている人はこのようなMIDIデータでは満足しないであろうから、CDの売上にはほとんど影響がない。むしろCDの宣伝になって利益につながるかもしれない。但しこのMIDIが僕の作曲した曲を台無しにするようなひどい出来であれば、頭に来て使用停止を申し出るかもしれない。または金が欲しくて欲しくてたまらなければ、MIDIを使用している人物に「それなりのお金を払ってくれれば使用を許可しますよ」と言うかもしれない。僕が心が狭い人間であれば「どれだけお金を積まれようとも、いかなる理由があろうとも僕以外の人間が僕の音楽を使用することは許さない」と言うかもしれない。
要するに著作権を主張して使用を許可するか否かは権利者の裁量によるということだ。権利者をさしおいて司法が勝手に裁くことは出来ない。
本来権利者と使用者の間にはこのような1対1のやりとりがあるべきなのだが、WEBという海のように広い場ではそんなことは事実上無理である。そこでJASRACの出番というわけだ。JASRACは大勢の権利者の著作物を一手に引き受ける
「ヒッヒッヒ。あんたの曲が無断で使用されないようにあたしが代りに見張ってあげるよ。そして、MP3だろうがMIDIだろうが着メロだろうが、どんな場所でどんな方法で使用されようとも、ぜ〜んぶいっしょくたに課金してあんたに利益をもたらしてあげるよ」
「但し! あたしもその何割かは手数料としていただくよ? ん? 手数料が高い? ばか言いなさんな。あたしが管理してあげなかったらあんたには1円たりとも入ってこないんだ。ちょっとでも収入が増えるんだから文句言うんじゃないよ。あんただって金が欲しいんだろ? 例え小学生が作ったHPのBGMに使われてもそこから金をむしり取りたいんだろ? ヒッヒッヒ」
「ん? そんなところにまで課金はしたくないって? ……おだまり!! いい子ぶるんじゃないよ!! あたしの言うとおりにしてりゃいいんだよ! 世の中金なんだよ! むしれるところからはむしるんだよ! あたしゃね、数え切れないくらい大勢の客をかかえてるんだよ。いちいち客のわがままに付き合ってたら体がいくつあったって足りやしないよ! めんどくさいから全部課金。文句があるんだったらやめりゃいいよ。あたしのバックには文化庁がついてんだ。あんたなんかひとひねりさ」
なぜか魔法使いのババアだ。
つづく
もう一度おさらいしておこう。あまりにも長い文章を書いたんで、自分自身何が何だかわからなくなってしまった。
著作権法とは著作者の権利を保障するものだ(うん 多分あってる)。この法律がなかったら、著作者は無断使用している人に対して、何もいう事が出来なくなってしまう。無断使用がやり放題になるわけだ。
しかし著作者が無断使用を認めることも出来るわけで、仮に「認める!」という宣言をしたならば、司法を含む第三者が「無断使用は絶対に行ってはならない!」などと言って使用者に怒る筋合いはない。
著作者は著作権法を行使して、「僕の音楽を使用する場合は1回につき一律10円を払ってください。払ってくれれば使用を認めます」と言う事も出来る。この場合、著作者の宣言を無視して10円を払わずに使用すると、補償金を支払わねばならなくなる。
で、JASRACは管理を委託してきた著作者に代わって、この「○○円払ってください」と言う宣言をおこなったわけである。この宣言が事細かで、どんな漏れも許さない、恐ろしく厳格な規定なのである。
さて話を僕のサイトにもってこよう。数字のお話だ。
詳しく調べたわけではないのでよくわからないが、恐がりiモード200数十曲の着メロの内、JASRACが管理を委託されている楽曲はおよそ半分かそれ以下くらいの数になる。仮に半分の120曲としておこう。
そして毎日のHIT数が約6000HITである。iモードを使っている人ならわかるだろうが、この数字は実はみせかけで、実際にはこの1.5倍くらいのアクセスがある。どういうことかというと、みんなパケ代をケチって、カウンタが設置されているトップページをすっとばすからだ。メニューに直リンしてしまうのである。これを防ぐためになんとか魅力的なトップページをと心がけているのだが、そんな努力も虚しく、利用者のほとんどはトップページなど見ていない。
そして1日あたりの曲のダウンロード数なのだが、これの算定はなかなか難しい。以前はDLカウンタを設置していたので一目瞭然だったのだが、サーバーへの負荷が激しくてダウンしかねなかったのではずしてしまい、さっぱりわからなくなってしまった。なので設置していたときの数字から類推してみよう。
当時1日1000HIT、実質1500HITだったときの1日のDL数は約1万曲(!!!)だった。1人で何曲もDLするのでこういう数字になる。全体で100曲しか配布していないのに、DL回数は1万にもなってしまうのだ。これを元に計算してみる。現在は1日約6000HIT、実質9000HITで、全体の曲数は240曲である。HIT数が6倍で曲数が2倍だ。1人当たりのDL数は曲数が増えている分、若干多くなっていると考えられる。そこで1人当たりのDL数を8曲とすると……ピピピピ
実に1日 7万2千曲がダウンロードされている計算になる。これは決して大げさな数字ではない。
この内半分がJASRAC管理曲だとすれば、1日3万6千曲分の課金が発生することになる。これが一体いくらになるとお思いか? 6円60銭×36000曲=237600円……。
1日に23万7600円!!!!
1ヶ月で712万8000円である!!!!!
アホヵ 笑。払えるわけがない 笑。ちなみにこの6円60銭という課金は「ダウンロード形式で、情報料がなく、広告料等収入がある場合」に適用される金額で、他の場合、例えばストリーム形式であったりとか広告収入がない場合とかで変わってくる。ちなみに僕の広告収入は今のところ月に1万円くらいである。月に1万円の広告収入でJASRACに712万円払えときたもんだ。
「ヒッヒッヒ。個人で着メロサイトをやろうなんて考えるおまえがバカなんだよ。音楽ってのはね、選ばれた人間だけが作ることを許される、貴族の楽しみなのさ。おまえさんみたいな素人がバカみたいに頑張って作ったものなんてタカが知れてる。そんなものはこの世から消えてなくなりゃいいのさ。ん? 何、顔を真っ赤にして怒ってんだい。おまえさん何か勘違いしてやしないかい? おまえは著作権侵害をしてる犯罪者なんだよ? 犯罪者が大きな顔してんじゃないよ」
「なんだって? 払う意思はあるって? 高すぎて払えないだけだって? ヒッヒッヒ。バカお言いでないよ。こんなはした金で何いきりたってんだい。700万くらいでガタガタ言ってる貧乏人はすっこんでな。うちのお得意さんのエニック○さんなんて月にいくら払ってくれてると思ってんだい。億だよ。億。さあさあ、ド素人はさっさとサイト閉鎖して大人しくしてな。あんまり調子に乗ってると本当に金を徴収しにいくよ?」
「ああ そうさ。いちいち小さなサイトにまで金を徴収しに行く暇はないさ。そんなの当たり前だろ? あたしゃ忙しいんだよ。あたしがいくらたくさんの従業員を雇ったって、星の数ほどある着メロサイトをいちいち全部見てられるわけないだろう。調子に乗ってる小憎たらしいサイトだけ目をつけて金をふんだくりにいってるのさ。そうすれば小さいサイトはびくびく怯えて、自分から閉鎖するからね。あるいは自分からあたしの軍門に下って、認可申請を出してくるのさ。これは楽なのよ〜 ヒッヒッヒ。いちいちあたしが調べなくても、月間のDL数やら何やらを全部自分で算出して、勝手にあたしの口座に振り込む仕組みになってるのさ。さあさあ帰った帰った。邪魔だよ。あたしゃ自分の金がいくら増えたか数えるので大忙しなんだよ。ヒッヒッヒ」
だーんだんむかついてきた。
つづく
「いいか!? 言っておくがな。僕は著作者の権利は侵害しても、著作者の利益は尊重するぞ! ちょっとでたらめな言い分だが 笑。どういうことかというとだな、例えばドラクエの曲は公式サイトで有料で配布されてる。もし僕がこの公式サイトの着メロより優秀なものを無料で配布したら、誰も公式サイトを利用しなくなり、著作者の利益が損なわれる。だから作らないのだ!」
「なんだい。さっきのハエかい? また懲りずに戻ってきたのかい。公式サイトより優秀とはまた大きく出たもんだね。ヒッヒッヒ」
「くっ、ハエ呼ばわりか。例えば『オホーツクに消ゆ』というゲームがある。このゲームの着メロは誰も作っていないのだ。著作者が自ら作ってくれているのなら僕はあえて作らないでおいたが、誰も作っていないものは僕が作る以外にないだろう! これは僕のうぬぼれだがな、恐らくオホーツクの著作者は僕の着メロを聞いて感動してくれるはずだ。こんなに古いゲームをよくぞ忘れず愛しつづけ、復活させてくれた……とな! オホーツクの著作者は、あまりにも古いゲームだから今はもう全くこの著作物から収入がない。僕の行為のどこが著作者の利益を損なうことになるんだっ!」
「何いきりたってんだい。いいかい? 『オホーツクに消ゆ』なんてゲームはあたしだって知らないよ。そんなものはあたしの管理曲じゃないんだ。知ったこっちゃないよ。勝手にやっておくれ」
「くっ、どこまでも憎らしいババアだ……。おまえは音楽の著作権を守るのが使命じゃないのか? 自分が管理してない曲はどうでもいいのか?」
「あたしの使命は委託を受けた著作者の収入を横から掠め取ることだよ。ヒッヒッヒ。音楽を守るなんて言葉は建前に決まってるだろう? 何子供みたいなこと言ってんだい。笑わせるんじゃないよ」
「くっ! 語るに落ちたな! おまえは著作権法の第1条を知っているのか?
第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
おまえがやっていることは文化を衰退させているだけだっ! 僕がやっていることこそ音楽を愛し、文化を発展させているのだっ!」
「言いたいことはそれだけかい?(ほじほじ 謎)(ピンッ 謎)ふーーーっ。文句があるんだったらあたしの宣言を認めてくれた文化庁の長官さんに言っておくれ。あの宣言がある限り、おまえさんがいくらいきりたったところで、課金の網から逃れることは出来ないんだよ」
「このクソババアめ……。文化庁なんていうお堅いところが、インターネットのなんたるかを知らないのを利用して、むちゃくちゃな金額を設定しやがって……。僕は払える金額だったら絶対に払うつもりでいるのだ! おまえのその強欲な金額設定のためにどれほどの人が泣き寝入りしているかわかっているのか!」
「あんだって? あんた、あたしのところのアンケート見なかったのかい? あの金額はほとんどの人が納得ずくなんだよ。アンケートでは著作権は守られるべきで、無料で利用するのはけしからんとみんな思ってることが示されてるだろうが。あんたは頭のおかしなクレーマーだよ。病院行った方がいいんじゃないかい?」
「何がアンケートだ! あんなものは何の意味もない! アンケートを取った相手が全部おまえの身内だったらいくらでも結果は操作できるだろうが! おまえのHPを恐る恐る見に行ってる人たちはみんなおまえの言葉を信じ込まされただけだっ。洗脳だっ。どこの世界にあんな無茶な課金を容認する人がいる! 世界を見渡してみろ。こんなひどいことをやってるのはおまえだけだぞ!」
「ヒッヒッヒ。また口座にン百万も振り込まれてきたよ。ん? 何か言ったかい? 言いたいことは全部言い終わったのかい? だったら黙って金払いな」
「くそっ。誰がおまえなんかに金を払うものか! 払うなら著作者に直接払うわっ!」
「だからあたしはその著作者から管理を一任されてるんだよ。うるさいガキだね。ひねり潰してくれる」
ぷちっ
「ぷちっ」て……。
つづく
JASRACを悪の権化のようにデフォルメして表現しているのは、問題の本質をはっきりさせるためであることは、賢明な読者諸兄はおわかりだと思っているが、JASRACがやっていることは半面やはり著作権保護のために必要なことでもある。それは重々承知である。
しかしどうしてもあの課金は払えない。高すぎる。
恐がりiモードがDoCoMo公式サイトとして認定を受け、有料サイト化すれば払うことは簡単だ。公式サイトの課金はDoCoMoが代行してくれるからだ。そこから何割かが自動的にJASRACに払われるというシステムは造作なくできる。僕は自分の収入など、サーバー代と通信費だけ頂ければ充分だ。後は全部DoCoMoとJASRACにくれてやる。再びうぬぼれるが、恐がりiモードは公式サイト化される価値が充分にあると思っている。しかし現実はそうはいかないのだ。DoCoMoは個人サイトなど相手にもしない。
となるとなんとか自力で課金システムを作り上げ、有料化するしかないのだが、それも無理な話である。何度かその試みを実現しようと自分なりに勉強してみたが、とても個人が手を出せる領域ではない。ましてや僕は本業が忙しくて、着メロサイトに全てを捧げる時間はない。
悔しい! 非常に悔しい!
というわけで、僕は法に抵触することをあえて承知の上で、着メロサイトを存続させるという結論に至った。
具体的に言うと、JASRACに見つからないようにコソコソとサイト運営するということである 笑。前回前々回の寸劇で少し触れたが、どう考えてもJASRACなどという人員の限られた組織が世の着メロサイト全てに監視の目を光らせることは不可能である。その隙間を突く。仮に見つかって警告を受けたら、その時はその時だ。白旗あげて、曲を削除するなり、地下に潜るなりするだけである。まともに裁判などで闘っても勝ち目はないし、破産してしまう。
僕は法を犯し、著作者の権利を侵しているが、著作者の利益は損なっていないと強く確信している。古いゲームの着メロ、それも誰も作っていない着メロを作ることが著作者の利益を損なうことはないはずだ。また、「文化の発展に寄与」もしていると思っている。莫大な課金をすることが文化の発展に寄与するなどとJASRACが思っているなら、やつらは大馬鹿野郎だ。
そして、出来れば僕のようなアウトローが出ないためにも、各ゲームメーカーは自社のゲームの着メロは古い新しいに関わらず、全ての曲を作ってもらいたい。そうすれば僕の出番はなくなるのだ。それも少し悲しいが、良質な着メロを聴けるのであれば何も文句はない。聞いているか? コナミ!「DDR」や「ビーマニ」の着メロばっかり作っていないで、悪魔城伝説の着メロも作れ!!(ちなみに以前、実際にコナミ社からのアクセスがあった。彼らはちゃんと監視しているのである)
しかし邪悪な僕は、こんな夢想もする。1日7万2千曲のダウンロード課金が、もしも自分の懐に全て入ってきたら一体どうなるだろう。1曲10円としても1日 72万円である。年収2億円を超える……。う〜ん ばたっ 卒倒。
掲示板の方でもちょっと報告したのだが、PS2を買ってみた。ここでクドクドと、いかに僕が貧乏で現金をもっていないかという事を愚痴りたいのだが、それはやめておく。この世には魔法のカード(!?)というものがあって、現金がなくともモノが買え、それが後々自分の首を絞めるように出来ている。そういうことだ。
で、PS2なんだがこれはすごい。以前従兄弟の家で実際に触った事もあるのだが、改めて映像のクォリティに驚かされた。GT(グランツーリスモ)の前作もプレイしたことがあり、正直なところGT3はオープニングムービー(あるいはリプレイ)だけが見たくて購入したようなものである。ご存知の方もいるかもしれないが、PS2にはいくつかの型番があり、DVDリモコンが同梱されているものやGT3が同梱されているものがある。僕が買ったのはこのGT3同梱モデルである。箱がGT3っぽく赤いのが少しかっこいい。
こういう同梱モデルが発売されるというのは、とりもなおさずPS2の売上が鈍ってきているということだ。それも当たり前の話で、PS2ではまだ大ヒットソフトというと鬼武者とGT3の2本くらいしか出ていないからだ。PS2発売から既に1年以上が経つというのに、この状況はお寒いと言う外ない。発売当初はDVDプレイヤー機能がクローズアップされ、「どうせDVDプレイヤー買うならゲームもやれるPS2を買ったほうがいいや」という人が大挙して押し寄せ随分売れたが、元々ゲームハードというのは発売直後にバカ売れするものでもあり、その後に面白いゲームが出なければ売れなくなるのは当たり前である。PS2を揶揄する言葉で最も秀逸なものに「PS2躍進の原動力になった大ヒットソフトは『マトリックス』だ 笑」というものがある。なんとも的を射た皮肉だ。PS2はゲーム機ではなくゲームも出来るDVDプレイヤー、つまり家電の扱いなのである。
しかし価格は未だに4万円に限りなく近い3万円台後半を維持しており、SONYの強気に変わりはない。Nintendo64、セガドリームキャスト、SONYプレイステーションの例を見て「いつかPS2も値下がりするだろう」と購入時期を迷っている人が多いことを考えると、この姿勢はちょっと疑問だ。恐がりiモードのアンケートでもPS2への期待は圧倒的であり、面白いゲームがまだ少ないことと価格が高いことが最大のネックになっていることは明らかだ。恐らくゲームキューブやXboxの発売時期に合わせて値下げを行うのだろう(ちなみにゲームキューブの価格は驚きの2万5千円である)。
いずれにしても4万円という価格は高い! ほとんどの人にとって、今のPS2に4万円を出す価値はないと言える。FF発売によって多少状況は変わるかもしれないが。
次回は鬼武者のレビューを書くつもりなんだが、なんと旬を逃したレビューであることだろう。遅すぎる。
最近思っていることを簡潔に述べる方法を忘れてしまった。ダラダラと長く書く癖がついている。鬼武者のレビューをやろうと思うのだが、1回では終わらなさそうだ。
その前にPS2について1つだけ言い忘れたことを書いておこう。PS2と言うかDVDプレイヤーについてなのだが、まだDVDで映画を見たことがない人は是非見るべきだ。テレビモニターというのは思っているよりはるかに優秀で、なんとなく画質がよくないなぁという場合、原因はアンテナとかビデオテープとか、モニター性能とは関係ない部分にある。ビデオテープの画質の劣化は特にひどく、DVDで味をしめてしまうと、レンタルショップで借りてきたビデオテープなど見る気がしなくなる。天と地ほどの差がある。地上波放送も例外ではなく、貧弱なアンテナのせいで画質はかなり劣化している。DVDで映画を見ると、「え? うちのテレビってこんなに綺麗に映るの?」と思うはずだ。是非見ていただきたい。
英語字幕、日本語字幕、字幕なし、英語音声、日本語音声を自由に選択できる点も素晴らしい。特にお子様がいる家庭では重宝するだろう。お母さんは英語音声日本語字幕で見たいだろうが、お子様は日本語吹き替えじゃないと話にならない。これがビデオテープだったら2本借りてくる必要があるが、DVDなら1本で済んでしまう。英語を勉強している人なら、英語音声英語字幕にすればヒアリングに最適の教材になる。DVDは場所も取らないし、おまけの映像特典も盛りだくさんだし、コレクションするには最高だ。画質が劣化しないので、中古ソフトを買うというのもいいだろう。とにかくいいことづくめ、それがDVDである。
では本題。鬼武者だ。
最初にはっきり言っておく。僕はこのゲームは結構好きである。世界観、ストーリー、映像は文句ないし、音楽もまあまあだ。しかしそこらへんを誉めても全然ゲームの発展につながらないので、今回はこきおろすことにする。
まず決定的にダメな点は、このゲームが単に『バイオハザード』の続編に過ぎないということだ。続編と言うとちょっと語弊があるが、実質的にはバイオのシステムをそのまま受け継ぎ、グラフィックと世界観、敵との戦闘システムだけ変えて別のゲームであるかのようにして売っている。これはどう考えても誉められたことではない。ほとんど詐欺みたいなものだ。別のメーカーが作ったものなら、「バイオを超えろ!」を旗印に頑張ったパクリソフトとして、少しは好意的に見る事も出来るが、バイオも鬼武者もCAPCOMが作ったゲームである。自社ソフトをパクってどうする……感は否めない。
PS2で凝ったゲームを作るのはとても大変だそうだ。そうなると既に確立されているゲームシステムを流用するのが手っ取り早いということになるが、それをやってしまったらゲームの未来はない。せっかくの新ハードなのだから、今までできなかったゲームシステムを作るのがメーカーの使命だろう。あまりに安易なゲーム作りにかなりの失望を感じた。
大作ソフトの続編ばかりやるのはもう飽きた。名前は受け継いでもいいが、中身は別物にしてほしいものだ。例えばマリオやゼルダはスーパーファミコンから64になって劇的に変化した。映像や音楽だけでなく、今までのマリオやゼルダとは中身が全く違うゲームになっていたのだ。
しかしそのシステムが、もう手の加えようがないほど熟成されたものならば、目先の部分だけ変えた続編があってもいいとは思う。ゼルダは64で2作出ているが(この2作は基本システムはほぼ同じだが、プレイすると全くの別物に感じる)、これくらい完成されたシステムならば、ダンジョンやストーリーだけ変えた続編をあと2作くらいやりたいという気になる。段々ゼルダ礼賛になってきたが、それくらいこのゲームは素晴らしいのだ。ちなみに64ゼルダはファミ通(1986年創刊)のクロスレビューの長い歴史の中で、初めて40点満点を獲得した傑作である。(その後『ソウルキャリバー』と『ベイグランドストーリー』が満点を取った)
では鬼武者とその元になっているバイオハザードのゲームシステムはどうなのだろう。それは次回に。うへえ、やっぱり終わらない。
初めて『バイオハザード』をプレイしたときの感動を覚えている。なんと画期的なゲームだろうと思った記憶がある。バイオハザードは「恐怖の演出」という部分でゲーム史上に残る傑作である。
しかし全部が全部よかったわけではない。不満な点も結構あった。しかしその不満が実は「恐怖」に結びついているという部分があったのだ。例えば場面転換でCDを読み込むのだが、普段であればイライラするだけのCD読み込みが、このゲームに限ってはドキドキ感を高めるのに役立っていたりする。3D視点が強制的なため、場所によっては見づらい場面などがあるのだが、これも見えない部分に対する恐怖となってゲームを盛り上げていた。操作性に難があり、敵を倒す爽快感に欠けるのだが、これも「思うように倒せないもどかしさと恐怖」に結びついている。これらが全て計算され尽くしたシステムなのだとしたら、なんとすごいことだろうと思ったが、実際にはゲームシステム構築の制約上生まれた苦肉の策だったのである。
これらは、バイオが「恐怖」を前面に押し出したゲームだったからこそ生かされていたわけで、これがもしも「ストーリー性」が第一であったなら、CDの読み込みが遅いのは致命的な欠陥であるし、「マップ攻略」が第一であったなら強制視点によって攻略の楽しさは削がれるし、「敵との戦闘の面白さ」が第一であったなら、操作性の悪さはストレスになるだけである。
鬼武者は「敵との戦闘」と「ストーリー展開」が第一のゲームだと僕は思う。特に僕はストーリーの面白さに惹かれた。そうなるとバイオのシステムは決して有効ではないのだ。敵を戦略的に倒して、次から次にストーリーが展開して欲しいのに、実際は単なるボタン連打の単純作業で敵を斬りまくるだけで、次から次に魅力ない謎で足止めを食らい、ストーリーが進まない。だから面白くないのだ。
一応弁護のために言っておくと、敵の技を防御した瞬間に攻撃すると一撃必殺の技が出せたり、敵の技にカウンターアタックをかけることなども出来る。これはなかなか面白かったりするのだが、一回コツを覚えてしまうとそれ以上上達するということがない。当たり前の技になってしまい、華麗に敵を倒す爽快感に欠けるのだ。
謎に関しては誉めるべきところが何もない。単にあっちこっち動き回って必要なアイテムをかき集めるというだけで、謎解きの面白さよりめんどくささが先に立つ。時間制限のパズルなどもうっとうしいだけだ。こんなもの簡単すぎても面白くないし(ちなみに僕にとっては簡単すぎた)、難しすぎたら先にすすめなくなるだけで、ゲームの面白さに全く貢献していない。絶妙なバランスを要求されるものなので、安易に取り入れるべきではないわけだ。
FFなどでもよく言われるのだが、謎解きや戦闘が「先のムービーを見るための作業」と感じられてしまうようなゲームは、ゲームとして全然面白くない。そんな作業はいっそのことナシにして、ゲームではなくCG映画にしてしまえばいいのだ。そうさせないために謎解きや戦闘には、それ自体で楽しめる魅力が必要である。
書いていてイチイチ思うのだが、これらの致命的な欠陥は64ゼルダが見事に払拭している。ゼルダが3Dアクションロールプレイングの最高峰に位置する所以である。
鬼武者レビューを書いていて、こきおろすことにストレスが溜まってきた。では僕がゲーム史上最高傑作と思っているNintendo64専用ゲーム『ゼルダの伝説〜時のオカリナ〜』と『ゼルダの伝説〜ムジュラの仮面』をレビューして口直しといこう。この2つのゲームに関しては貶すところがまるでない。全編誉めるところだらけである。1回では誉めきれないだろう。
ゼルダシリーズの肝は、アクションと謎解き、ダンジョン攻略にあると言っても過言ではない。はっきり言ってストーリーなどどうでもいいのだ。バックグラウンドのストーリーはあるにはあるんだが、そんなことをいちいち気にしているのはキャラクターグッズを集めて悦に入るような一部のマニアだけである(ちなみに僕はこの一部のマニアに該当する。グッズは買っていないが 笑)。この肝の部分はファミコン時代から変わらず、SFC、64でも踏襲されている。しかし!!! そのゲーム性はハードによって全くの別物と言えるくらい変化している。特にSFCから64になったときが劇的で、映像や音楽がグレードアップされたのが、瑣末なことに感じられるほどであった。
3Dフィールドでのキャラクターの動きに関しては『64マリオ』の基本エンジンを踏襲しており、その操作感は完璧の一語に尽きる。正に「キャラクターを動かしているだけで楽しい」ゲームの見本だ。これは64開発時から練りに練りこまれた付属コントローラーあってこその操作感で、PSやPS2では決して感じることが出来ない。絶妙な位置に絶妙な長さの3Dスティックがあり、マリオやリンクを直感的に思い通りに動かすことが出来るのだ。
PSもこれをパクってアナログスティックをコントローラーに取り入れたが、従来あったコントローラーにくっつけただけなので、位置的に辛いものがある。またアナログスティックの長さが短めで、微妙な傾け具合に対応するにはあまりにも柔らかすぎるため、キャラクターを思い通りに操作することは難しい(特に、ほんのちょっとだけスティックを傾けたりするのに向いていない)。ストレスが溜まるコントローラーである。
64コントローラーのもうひとつの素晴らしい点は振動パックだ。これは別売りのため少し損した気分もするが、コントローラー下部の離れた位置に接続するので重量のバランスがとてもよく、振動の伝わり方もPSのコントローラーより強烈である。敵に剣を当てた時、高いところから落ちた時、巨大な敵がずしんずしんと迫ってくる時、強弱のメリハリが効いた振動を起こして まるで自分がその場にいるかのような臨場感を演出してくれる。この「コントローラーが振動する」というアイデアもPSはパクっている。最初に考えたのは任天堂である。
この素晴らしい付属コントローラーのおかげで、ゼルダ(とマリオ)はまるで自分がその場にいるかのように自由自在にキャラクターを動かすことが出来るのだ。スティックをほんのちょっと傾ければゆっくりと歩き、激しく傾ければ走り出す。突然止まって宙返りが出来る。剣を縦に振ることも横に振ることも、突くことも出来る。ジャンプして敵を斬りつけることも出来る。高いところから水に飛び込んで泳ぐことが出来る。敵に視点を固定したまま周りをぐるぐる回ることが出来る。剣をしまって盾の防御に徹することが出来る。敵の攻撃を見切り、寸前でかわして攻撃に転じることが出来る。馬に乗って流鏑馬に挑戦することが出来る。楽器を演奏することが出来る。遠く離れたアイテムをブーメランを使って手元に引き寄せることが出来る。その他数え切れないほどの多彩なアクションが直感的に可能なのである。
というわけで、ゼルダは操作しているだけで楽しい。ダンジョンも謎解きもストーリーすらも要らない。キャラを動かす「場」があるだけでもいいのだ。……以上でレビューを終わらせたい気持ちもするが、それじゃあつまらないので後は次回に。

のっけから気色悪い写真で申し訳ないが、外階段から落ちて肩と膝を痛打、両手のひらの皮がずるずるにムケてしまった。満身創痍で書いている。
僕はメインPCにはマイクロソフトのナチュラルキーボードというものを使っている。これは手のひらをキーボードにべったりとくっつけてタイピングが出来るので疲れなくてとてもよい。しかし手のひらに怪我をしているときにはとても使いづらいという事がわかった。収穫である 涙。
というわけでやっつけ気味のゼルダレビューの2回目。
64ゼルダを語る上で最も重要なのは先に述べた操作系の素晴らしさなのだが、もうひとつ忘れてはならないのは「カメラ」である。ゼルダに限った話ではなく、3Dゲームでは必ずつきまとう大問題である。
2Dゲームの場合は視点は通常一定である。それは横スクロールであったり、縦スクロールであったり、疑似3Dの斜めスクロールであったり、俯瞰であったりするのだが、3Dの場合はこれが全方位の視点にならざるを得ない。主人公の目を通した映像、つまり一人称視点の場合は常に一定となるが(『DOOM』など、黎明期の3Dゲームはほとんどが一人称視点であった。これは技術的に三人称視点が難しかったからである)、三人称視点の場合は必ず「カメラ」の存在が必要となるのだ。
このカメラの性能が悪いと、3Dゲームはクソつまらないものになる。例えば、常に主人公の後方からカメラがついて回るゲームがあるとする。この主人公が壁を背にしたらどうなるだろうか? カメラは壁の中に埋もれた状態となり、壁の内部から主人公の背中を写すことになる。この場合、壁が不透明であれば画面は真っ暗になってしまう。ほとんどのゲームではこのようなバカげたことにはならないが、処理が甘いゲームだと実際このような状態になることがある。
3Dゲームというのは中身がつまった物体というものを作れない。ゲーム内の物体は全てポリゴンという板を貼り合わせて作った、中身がスカスカのハリボテなのだ。なので、壁の内部にカメラが入ってしまうと妙なことになるのである。
ゼルダの場合、このような不都合が起きないように、カメラの位置が計算し尽くされている。常にベストな状態で主人公を写すようになっているのだ。これは簡単そうに見えてなかなか難しい処理である。この処理が面倒で回避したい場合は、フィールド内にそのような不都合が起きる所を作らないようにするか(ヴァーチャファイターなどの3D格闘ゲームは、周りにほとんど障害物を作っていない)、場面ごとに主人公の動きに全く左右されない完全固定式のカメラにするかの2択になる(バイオハザードや鬼武者はこの方法である)。障害物を作らないようにすると、地形が妙に殺伐としたものになり、アクションゲームとしての質が落ちるし、完全固定式にすると、操作が難しくなったり場所によってとても見づらい状態となる。どちらもダメなのだ。
さらにゼルダのカメラシステムで秀逸なのは、手動でも視点を切り替えられる点である。カメラは常にベストな状態で主人公を追っているが、どうしても地形的に見づらくなる場所を完全になくすことは出来ない。そういう場合は瞬時に後方視点に切り替えたり、一人称視点に切り替えることができるのである。これによって、3Dのフィールドは真に360度全方位のフィールドたりえるのだ。
見た目が3Dなだけで、アクションの質が2Dというゲームは実は非常に多い。そういうゲームは2Dゲームの操作が単に複雑化しただけであって、3Dフィールドを自由自在に動き回る爽快感に欠ける。ゼルダ(とマリオ)は、この高いハードルを完全に超え、コンシューマー史上初の「本物の3Dゲーム」となったのである。その大きな原動力がカメラシステムであったことは間違いない。
このカメラシステムは64マリオで完成されたのだが、これを超えるシステムは未だに出ていないはずだ。出ていたら是非掲示板で報告していただきたい。
ゼルダはあと一回くらい書くかな。
文章の中にやたらと「僕は」「俺は」「私は」が出てくる人は我が強く、自己主張の激しいタイプだ。僕もモロにこのタイプだと思う。これについては特にどうという感想もないのだが、一人称を「僕たちは」「俺たちは」「我々は」と複数形にすることによって無意識に自己主張の激しさ、我の強さをオブラートで包もうとする人、集団を隠れ蓑にして逃げ場を作る人にはかなりの嫌悪を感じる。複数形の裏には、読者に対する同意の強要や、存在してもいないある種の集団への帰属意識がある。
複数形を使うなら、特定集団の意見を代表しているということを強く意識して発言するべきだ。あなたはどの集団の意見を代表しているのか? その集団に属する人たちの名前をはっきりと挙げられるのか? そもそもあなたが考えているような集団は実際に存在するのか? それはあなたが勝手に作り上げた幻想ではないのか? こういう質問に思わず「うっ」と詰まってしまうようなら安易に「僕らは」「我々は」などと言うべきではない。
読み手を勝手にあなたの仲間にするべきではない。あなたの考えに同意するかどうかは読み手が自分で決めることだ。
「僕らの時代にはなかった」「うちら関係ないし」「私たちに出来ることから始めよう」
うんざりだ。
というようなことを今日は思った。例によって僕のお昼の友、ワイドショーを見ていたときである。11時半からはテレ朝の番組を見ているのだが(脚本家 市川森一のコメントが好きだから)、堺正章の記者会見で芸能レポーター福岡翼の発言にカチンときた。
「堺さんの女性問題、金銭問題が原因だと僕たちは思ったんです」
僕たちって一体誰のことなんだ? それはあなたが個人的に思ったことではないのか?
ああ、当たり前の事を当たり前に書いてる自分がバカに思えてくる……。
さあ 明日からJASRACの大仕事が始まる。最後の最後にとっておいた、このサイトを是非覗いてほしい。作曲家、玉木宏樹氏の個人ページである。
玉木氏は著作権管理を委託する側として、JASRACに意見を述べる「評議員」の一員である。玉木氏が作った曲によって生まれた利益は、JASRACが管理し、玉木氏に還元されねばならない。さて実態はどうなのだ? 玉木氏のサイトの「音楽著作権とJASRAC問題」というコンテンツを熟読していただきたい。JASRACがいかに硬直した官僚主義的組織であるか手に取るようにわかるだろう。そして、JASRACがいかに著作者をないがしろにし、彼らの利益に結びつかない不毛な活動を行っているかがわかるだろう。
僕のような著作権侵害者の立場ではなく、守られるべき著作者の立場からのJASRAC批判である。
さらに問題を深く追求したい方は「世界的にも例を見ない非営利個人サイトに対するJASRACの音楽著作物使用料徴収に反対します!」というサイトをオススメする。
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