とある新聞社の入った駅ビルのパブで、僕はウェイターのアルバイトを始めた。アルバイトの人数は常時3人。50代の雇われ店長が人当たりの良い優しい人なので、歴代のアルバイトたちには長く続ける者が多くいたらしい。しかし僕と同時期に入った慶應大学のヤツが会うたびにいちいち自慢話をする男で、こいつのせいで僕自身は長続きしそうにないな、と感じていた。人数が3人しかいないからイヤなヤツと当たったら逃げ場がないのだ。でももっとタチの悪い人が厨房にいることに、まだこの時点では気付いていなかった。
一人しかいない厨房専門の従業員、吉田さんは多分30代の後半だったと思う。でっぷりした体のこの男は、鼻が悪いのか、いつも受け口気味の分厚い唇からゼエゼエと喘ぐような激しい呼吸音をさせている。一番特徴的なのは不自然に突出した眼球で、僕はバセドー氏病の疑いをもった。しかし本人に向かって真偽を確かめた事は一度もない。そんなことはとてもじゃないが聞ける雰囲気ではなかったからだ。とにかく一度目にしたら忘れられない異形の人だった。
吉田さんは一流のフランス料理店で働いていた事が自慢だった。パリで修行したこともあるという。僕が一度すっとぼけて「なぜこんな駅ビルの従業員5人しかいないパブなんかで働いているのですか?」と訊ねたら、「いろいろとあるんだよ。おまえなんかにはわからないいろいろな事情がな。でも俺はこんなところで収まってる器じゃねえんだ。そのうちまた有名なフレンチに移るよ。もう話は来てるんだ。ここはそれまでの腰掛けだ」と答えてくれた。店長に訊くと、吉田さんはこのパブで働いてもう4年になると云う。どのような事情があるのか僕には想像もつかなかったが、吉田さんがまた名店で働く事は多分ないだろうな、と思っていた。この店がちょうど彼の器にあっているように僕には思えた。
パブで出す料理はフランス料理とは縁もゆかりもないものばかりだった。数はそれほど多くない。フライドポテト、牛タンの塩焼き、焼きビーフン、茄子のチーズ焼き、この四つを食えば、大体この店を制覇したと言ってよかった。オーダーを受けたウェイターは、ホール(といってもテーブルが10個にカウンターが5席の狭い店だ)と厨房をつなぐ小さな小窓まで行って、まず大きな声で「お願いします!」と吉田さんに声をかける。この掛け声を忘れたり、声が小さかったら吉田さんは料理を作らない。客からどれだけクレームが来ようとも作らない。料理が出来上がると、呼び鈴がけたたましい音で鳴らされる。あの、ホテルのフロントなどによくある、押すとチーンと鳴る小さい呼び鈴だ。音が鳴ったらすぐさま小窓まで料理を取りに行かねばならない。ウェイターが全員客のオーダーを取っていてもお構いなしだ。ウェイターが取りに来るまで延々と呼び鈴は鳴らされる。「温かい料理は出来たてのものを出さなくてはならない」という吉田さんの信念のため、オーダー取りはしばしば中断させられた。1週間も働くと、チーンという音がするだけで体が雷に打たれたような感じがして、足が勝手に厨房の方に向かう癖がつく。それくらい暴力的でおっかない音だった。あれは吉田さんのこの世の中に対する怒りそのものだったと思う。
一回りも歳が上の店長さえも吉田さんには一切文句を言えなかった。吉田さんは忙しさのピークが終わると、ホールの僕らを厨房に呼んで一緒にタバコを吸う。厨房の忙しさのピークが終わるということは、実は再びホールの忙しさのピークが始まるということなのだが、そんなことも吉田さんにとってはお構いなしなのだった。僕も随分長いこと飲食店で働いていたが、料理人の聖域である厨房で堂々とタバコを吸うのはこの店が初めてだった。僕らがのんびりとタバコを吸っている間、店長だけが一人黙々とホールで仕事をする。しかしこれだけ傍若無人に振舞うだけあって、吉田さんの料理は確かに美味かった。他の事では腹の立つことばかりだったが、料理の腕だけは認めざるを得なかったのである。店で出す料理とは別に、毎日違うまかないを作ってくれるのだが、これが毎回うならせられる。従業員の栄養のバランスまで考えて作られるこのまかないは密かに僕の楽しみになっていた。
気詰まりな時間を少しでも減らしたいという一心で、僕は積極的に吉田さんに話しかけるようになっていった。
吉田さんは意外に多種多芸な趣味人だった。少々説教臭いところはあったが知ったかぶるようなことは一切なく、知らない事は知らないとはっきり言い、素直に知識を吸収していくタイプの人だった。しかし貯め込んだ知識を披露する話し相手がいなかったのだと思う。聞き役に徹していた僕は気に入られ、毎日のように趣味の話に付き合わされた。でもそれは仕事で小突かれたり、向こう脛を蹴られたりすることに比べたら全然苦にならない。話の内容も僕の知らない事ばかりで面白かった。女の話をするときだけ、吉田さんの話の調子は少し違っていた。あの異形に偏屈な性格だ。多分恋人はずっといなかったに違いない。風俗店でのちょっと誇張した武勇伝など、下卑た笑いと女性に対する屈折した感情が入り混じった、聞くに堪えない話が多かった。そういう話をした後は決まって何かを思い出したように吉田さんの機嫌は悪くなり、仕事の最中にアルバイトに蹴りを入れたり八つ当たりをするのだった。
僕は半年程働いた後、別のもっと条件のいいアルバイトをみつけてそこを辞めることにした。吉田さんは、僕が店長に辞めると申し出たその日から一切僕に話しかけてこなくなった。その代わりに呼び鈴の音が前にも増して暴力的になった。
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